6 アメリカに来るまで


 国外への引越しは、大人になってからは初めてだった私にとって、ましてやペット連れの引越しというのは、まさに暗中模索、手探りの作業だった。置いて行くということは一度も考えなかった。唯一、気になったのは交通事故の時に受けた脳へのダメージが原因で、飛行機に乗れなかったらどうしようということだったが、これに関してはホームドクターが太鼓判を押してくれたので、とても安心できた。
 引越し業者や、ネットで色々調べた結果、次のようなことがわかった。

 国内、現地、計2回の検疫を受ける。
 国内は、空港に検疫所があるので、そこに必要な書類を問い合わせること。
 現地は拘留はなく、手続きのみ。英文の健康診断書と各予防接種証明書を用意する。
 犬の飛行機への搭乗は数に制限があるので便の予約をする時に、必ず確認し予約を取ること。
 小型犬の種類に入るものは、移動用のバスケットに入れて一緒に座席に乗ることが可能。しかし中型犬以上は、ケージに入れた上、貨物室での搭乗となる。(残念ながらアレックスは中型犬なので貨物室)
 この際食べ物はやらず、ケージに取り付けるタイプの給水器のみ可。


 まず検疫に関しては、空港の検疫所に問い合わせて、ファックスで申込書や、詳しい検査の内容などを送ってもらった。
 それによると、申込書以外に獣医に健康診断書と予防接種証明書を作成してもらって、持参すること。搭乗の3時間前に検疫所に行って、そこのドクターに健康診断をしてもらい、手続きをする。
 実はこの時点で慌てて狂犬病の予防接種をした。
 狂犬病に関しては先生が「そんなに焦ることはないです。もうちょっとたってからでいいでしょう。」と最初におっしゃっていて、そのままにしてしまっていた。
 しかしもらった説明書を読むと、接種後少なくとも1ヶ月以上たっていること、が条件で、すぐに先生のところにすっ飛んでいった。
 日本文も英文も診断書を頼むと、先生は快く応じてくださり、しかも無料で作成してくださった。私はびっくりして、何度も払おうとしたのだが、先生は笑って取り合ってくださらなかった。日本文はフォームがあったが、英文の方は、決まった形式もなくお手数をおかけしたのに、と思うと申し訳なかった。と、同時にますますこの先生のファンになった。

 フロリダに行くに当たって先生から受けたアドバイスは
 暑いところだから、蚊がたくさんいる。フィラリアは必ず予防したほうが良い。
 フードは今与えているものはアメリカ製なので、向こうでたぶん半額くらいで手に入る。これに限らず、薬でも何でもアメリカの方が良質だしかなり安い。
「僕自身も時々ハワイまで薬の買い出しに行くんですよ。うらやましいなあ。向こうは本当にペット医療も産業も充実していますから。」
と先生は盛んにおっしゃったが、アメリカでも先生のようないい獣医が見つかるかどうかが一番の私の懸念だった。


フロリダの家の玄関の前のアレックス


 狂犬病の予防接種をしたので、やっと登録証がきた。市役所に問い合わせたところ、そのまま帰国までキープしていて欲しい、とのことだった。
 引越し前日には、アレックスをかったショップでシャンプーカットをしてもらった。いわゆる美容はこれが初めて。サービスでかわいいリボンをつけてもらって、なんだか女の子みたいになって帰ってきた。
 ショップの人も
「そうかあ、海を渡るんですねえ。」
と感慨深そうだった。

 さて引越し当日。アレックスはケージに入れっぱなしだった。沢山の人が家の中を行き来している様子に、「これはただ事ではない。」と気づいたのか、神妙な顔をしてじっとおとなしくしていた。
 空港近くにホテル、そしてペットホテルを取ってあったので、荷物と一緒にケーごと迎えのバンに載せて出発する。車の中ではいつも抱っこだったので、落ち着かないのか、アレックスは盛んに甘えた声を出していた。
 ペットホテル業者は、到着時間近くにホテルの入り口で待っている、と言っていたが、少し早めについてしまったので、フロントから連絡してもらう。犬はホテルの中には入れないので、アレックスだけ別室に連れて行かれる。このときはさすがに心細げに
「クウーン。」
と鳴いていたが、仕方がない。しかし、せめて飼い主と一緒に待てる部屋があるといいのになあ、と思った。
 15分くらいして部屋に連絡が来て、ペットホテルの業者に会いに行く。えさのことなど簡単に打ち合わせて料金を払い、次の朝の時間を決めるとすぐにアレックスを載せて走り去った。
 この交渉も全て外。寒い時期だけに、勘弁して欲しいなあと思った。

 次の日の朝、7時50分きっかりにペットホテルの人が、ホテルの前に来てくれていた。アレックスはやはり緊張していたのか、フードもほとんど食べなかったらしい。ケージの中から恨めしそうな顔で私を見上げている。すぐに出してやりたいが、検疫が終わるまでは無理だ。
 ホテルでカートを借りて、ケージとトランクを積んで出発。空港とホテルは中で繋がっているので、この時くらいはいいだろうと、堂々とフロントを横切って空港へ向かう。誰にも何もとがめられなかった。
 検疫所は空港ビルとは少し離れた場所にある。引越し業者の話によると、まれに混んで いて順番待ちをすることがあるそうだ。そうするとチェックインに間に合わない、なんてこともあるので、とにかく早く行ってくれ、と言われていた。

 言われた通り、チェックイン3時間前に検疫所に向かう。しかし……すいていた。私は大きな倉庫のようなところで、流れ作業的にするのかと思っていたが、実際には小さな部屋に診察台とカウンターがぽつんとひとつだけだった。対応してくれる人も一人だけだし、確かにこれで3匹くらい重なれば大変に時間がかかってしまうのだろう。
 書類にはんこを押してもらって、一枚はアメリカ入国の時に提出するように言われた。それから女医さんが来て、簡単に診察。聴診器を当てて体をチェックした後は、耳の中や目を見ておしまい。全部で15分くらいだったろうか。
 係員から帰国の検疫のことも少し説明を受けた。出国する時は、拘留はないが、帰国の時は最低2週間の拘留があるという。これは犬にとっても飼い主にとっても辛い処置だと思った。

 こっちへ来てから聞いた話だが、ある家族がこの拘留を知らずに帰国し、検疫所で猛反発して、連れて帰ってしまったそうだ。
 その時その家の奥様は
「2週間も会えないなら、死んだ方がましです。今すぐここでこの子を殺してください。」
と言ったそうだ。それを横で聞いた子供は絶叫して泣き出し、検疫所は騒然となったという。結局は係員が折れて、連れて帰ることを許可したというが、すごい奥様だと思う。私はアレックスのためにそこまでしてやれるだろうか。
 私的にはこれは改めて欲しいシステムだと思う。きちんと毎年予防接種を受けさせて、それを証明するものがあれば何も2週間も拘留しなくてもすむのではないだろうか? 犬も家族もストレスがかなりたまると思う。何年先かわからないが、帰国するまでには変わって欲しいシステムだ。

 さて、無事に検疫が済んだので次はチェックイン。しかしかなり検疫が早く終わったので、時間には余裕がある。私は少しアレックスをケージから出してやりたくなった。そこで子供達に荷物の番をさせて、空港周辺を少し散歩した。
 アレックスは盛大にトイレをした。きっとペットホテルでもずっと我慢していたのだろう。全部終わったらとてもすっきりした顔をしていた。散歩をさせて本当によかったと思った。大の方は袋に入れて、空港のトイレに流した。
 チェックインカウンターでは、さすがに荷物と一緒には載せられず、係員が来て預かってくれた。別のカウンターでペット輸送料を払ったが、大体4万円弱だったと思う。
 ケージは補強のために黄色いテープを何重にも巻かれた。アレックスは
「一体これから僕はどうなるんだろう?」
という不安を隠せない顔をしている。ケージの周りにはちょっとした人だかりが出来ていた。その中には、やはり仕事でニューヨークに赴任するとおっしゃる方がいて
「僕もテリアを飼っているんです。後から家族と一緒に来るけれど、こうやってくるんですねえ。」
としみじみおっしゃっていた。

 これが日本でアレックスの姿を見た最後で、次に会ったのはシカゴのオヘア空港だった。我々の入国審査が終わり、一度荷物を引き取りに行く途中で、アレックスが乗ったケージを係員が運んできた。
「犬の検疫はどこでするのでしょうか?」
と聞くと、
「書類はあるか?」
というので、用意していた英文の健康診断書と予防接種証明、それから日本の空港でもらった検疫証明を渡すと
「ちょっと待ってね。」
とケージを置いたままどこかに消えた。そのままそこ二十分間くらい放置され、我々はただボーっとしていた。

 やっと戻ってくると、いきなり係員は
「この犬はhouse dog? それともfarm dog?」
と聞いてきた。
 どういうこと? と思いながらも「house dog」と答えると
「OK.Go ahead.」
 後からこれは当時話題になっていた口蹄疫という病気を懸念しての質問だったことがわかったが、その時はそれで検疫が終了したということがなんだか信じられず、ぽかんと口を開けたまま、そこに立ち尽くしていた。
 いい加減と言えばいい加減だが、こんなに簡単に済むというのは犬や飼い主にとっては幸せなことには違いない。一応ほっとはしたが、まだもうひとつ飛行機に乗らねばフロリダにはつかない。しかも乗り継ぎの時間が迫っていた。荷物の乗り継ぎ場所に行って、再びアレックスを預けると、後はみんなでひたすら走った。

 3時間後にようやくフロリダ、オーランド国際空港に到着。出迎えてくれた主人と共に荷物引取りの場所に向かう。荷物はベルトコンベア―に乗ってどんどん出てくるが、アレックスの姿はどこにも無い。
 不安になったので主人が聞いてくると、すぐに別のドアからケージが運ばれてきた。
「このまますぐに連れて帰っていいのかな?」
「うーん、わからないな。」
 そこでまた別の係員に聞いてみると
「わからないけど、入国審査がすんでるんならいいんじゃない? 何かあった時のためにあなたのドライバーズライセンスの番号を教えて。」
 主人が提示したライセンスの番号を彼女がメモって終わり。やたらアバウトだが、これがアメリカ式なのだろう。とにかく長旅に耐えたアレックスをケージから出してやる。アレックスは千切れるくらい尻尾を振ってよろこんでいた。

 飛行機の旅はどうだったか、アレックスに実際にインタビューしてみたいが、とにかく動物にとっての空の旅は過酷らしい。犬の性格にもよるが、中にはショックで死んでしまう犬もいるとか。乗り継ぎを含めて約15時間の旅だった。
 アレックスは幸いなことに、アメリカについてからも元気いっぱいだった。むしろグロッキーは私の方で、時差ぼけも重なって家に着いてからは死んだように眠った。
 かくして何とかアレックスは海を越えた。
 私たちにとってもアレックスにとっても新生活がスタートしたのだ。


 

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